雪月占花_心々の『楽書記』

地球の不可思議を楽しみゆるく暮らすためのメモ

この世には必然しかない「聖なる予言」

本日の『楽書記』はスピリチュアル本
「聖なる予言」をご紹介。

ザックリ内容と著者執筆のキッカケ

続本達についてもザックリと

「聖なる予言」ページ抜粋

「第十の予言」ページ抜粋

「第十二の予言」ページ抜粋

 

1994年発売、真の心の清の直観の先にある出来事は偶然ではなく必然であると自覚させてくれたのが、ジェームズ・レッドフィールド「聖なる予言」。スピ本デビューがこの作品だったから自然に不可思議散策をはじめられた。この本も「アルケミスト」と同じで一つの物語になっている。筆者が実際にペルーで古文書の話を聞いたことが執筆のキッカケ。それを聞いただけでわくわく出来る。物語は古文書に記されているという九つの知恵を主人公が一つずつ経験しながら手に入れていくRPG的な作りになっている。偶然という必然の出会いのなかで、一つずつ見い出される九つの知恵と自身の現世と過去世を見つめ直す過程は、とても具体的で現実的。気のせいカモだけど、山川夫妻の翻訳によって原作よりも重厚感が増し胡散臭さが減少したのではないかと言う空気を感じる、結果オーライ疑惑。

 

物語の主人公は恐らくどの読者よりスピリチュアルな世界に無知で反感を抱いているため(時にイラつかされるほど)読む側もどっぷり浸ることなく客観的に読めるので、この手の入門書としては最適だと思う。その後に出た「第十の予言」(1996年)とこの「聖なる予言」(1994年)は節目節目に読みたくなるが、それ以降に出版された、物語としての色合いが濃い「第十一の予言 シャンバラの秘密」(2001年)、逆に物語性が薄く実践的に使える技が多い「第十二の予言 決意のとき」(2011年)は一度読めば充分な、あくまでも続編ポジション。多くのバンドがデビュー曲を超えられないアノ感じは、スピ系の本で特に感じる。最初の本って入ってる情報量も熱も氣の量も全部が後発組とは違う、これはもう仕方ない。

 

「聖なる予言」よりフレーズ抜粋

より快適な生き残りのスタイルを確立するために働くことが、満足感となり、生きる目的となりました。そして、我々は最初の疑問を、いつのまにか、忘れてしまいました。我々は、自分たちが何のために生きているのか、まだ知らないということさえ、忘れてしまったのです。

 

私たち人間は常に、自分が知っている唯一の方法で、自分の個人的なエネルギーを増やそうとする。すなわち、心理的に他人からエネルギーを盗もうとするのだ。この無意識の競争こそ、世界中の人類の争いの根底にあるものなのである。

 

エネルギーを充たし、自分の状況や問題に自分を集中させる。そうすると、直感という形で、どこへ行けばよいか、何をすればよいか導きを受け取ることができる。次に偶然の一致が次々に起きて、私たちをその方向へと動かしてゆく。

 

どんなに否定的な出来事であっても、そこに隠されている本当の意味を読み取るようにと言っています。捕まった時、あなたははじめ、これですべてが駄目になったと思いましたね。でも今、あなたはここに来るべくして来たとわかっています。ここは、あなたの答えがあった場所なのです。

 

頭の中にたたき込むのよ、私たちが出会う人は、私たちにメッセージを持っているって。そうでなければ、彼らは別の道を行くはずよ。私たちがここに着くよりももっと早くここから立ち去っているか、もっとあとに来るかしているわ。

 

子育てにも触れていて、血縁かどうかは関係なく他人が子供の面倒を見てもよいし、そもそも全部のエネルギーが両親から来る必要はないとあった。そんなコトよりも子供一人に対して一人の大人の注目が十分に注がれなければならない、と。これは人間が、一人につき一人にしか注意をむけられない話で、よく実感する。兄弟姉妹は、比較されたり好きだの嫌いだのの感情で親からのエネルギーの分量に明らかに差が出てしまうと感じるし、友人同士でも、3人になった瞬間誰か一人の注目を浴びるための奪い合いが起きる。恋人でも同じで「愛」と言う名のもとにエネルギーの奪い合いが起きる始末。このエネルギーに関しては入念に書かれている。ちなみに「第十二の予言」のamazon商品内容説明欄に、第一から第八の知恵がざっと記載されてて、笑った。

 

 「第十の予言」からのフレーズ抜粋

真の充足感は、まず自分の心が本当に欲している方向と、神の導きの方向が合致した時にだけ得られるのだ。その時にのみ、われわれは自分の意志を、イメージで受け取った潜在的未来へと向かうために使うことになり、われわれは神と共同して創造する存在となる。─ 51ページ

 

私たちはそれぞれ、自分の人生がどうなるか、何をしたいのか、一つのビジョンを持って生まれてきているのです。直観や夢や偶然の一致は、すべて、私たちに進むべき道を歩かせるためにあるものなのです。自分がどのように人生をくり広げるつもりだったのか、その記憶を呼びさますために。─ 124ページ

 

自分はこの悪環境をたち切り、家族関係を癒すだけの強さを持っていると、確信していたからだ。こうしたひどい環境の中で、それまでの恨みや怒りを解消し、覚醒できる自信があったのだ。そして、同じような境遇の人がそこを抜け出す手伝いをするのが、自分の使命だと知っていて、その準備のためにそういう場所を選ぼうと決めてくるのだ。─ 203ページ

 

人間は二つのことを自分の人生に引き寄せてしまうのです。私たちが信じていることと、恐れていることの二つです。─ 227ページ

 

もう私たちは、知りながら行動しないという失敗は犯したくもなければ、自分の臆病さが招いた悲劇的な結果を人生回顧で見せられて後悔に苦しみたくもないのだ。─ 278ページ

 

「第十二の予言」からもフレーズ抜粋

ある意味で、いろいろな出来事が、自分が信じていることを行動に移すように我々を追い込むのだ。

 

不思議な偶然の一致がどんどん頻繁に起こってくるようになると、私たちは何かに導かれているということがわかってくる。そしてさらに、この歴史的な危機から守られてさえいるということがわかってくるのだ。

 

もし自分を真実の中心にすえれば、共時性がどんどん起こってくるだろう。しかし、嘘偽りに加担するならば、君の人生に自分と同じことをする人間を引き寄せるだろう。これは罰するためでなく、それがどんな気持ちかを味わって、君が真実の方向に戻れるようにするためなのだ。

 

私たちはなぜか、周りの人間が必要なことが何かを知っている。われわれは反応して行動する時、私たちはこの奉仕の法則の一部となる。しなければならないことはただ、「どうしたらこの人のためになれるだろうか?」と考えることだけだ。すると答えがやってくる。君に必要なものはすべて助けを行うために与えられる。そして違いを生み出すために自分はいつも、まさに必要な時に必要な場所にいると、感じるようになるのだ。

 

導きに敏感になるための一つのコツは、常に「今、私はなぜこのように考えているのだろうか?」と自分に問いただすことである。

 

その時の状況に対する直感や高次の理解を今すぐ必要とする時のための方法として、文書はもうひとつ教えていた。ただ、待っているのではなく、同調することによって、導きを積極的に求めることができるのだ。たとえば、どこかへ行くかどうか決めなければならない時、すでにその場所にもうすぐ到着しようとしている自分自身をイメージしてみる、この方法のポイントは、どのくらいその旅を簡単にイメージできるかどうかという点にある。もし、そこに楽々行った自分が見えれば、それは行ったほうが良いことを意味している。もし、望ましいイメージがなかなか見えなかったり、まったく何も現れなかったりしたときには、予防措置をとるべきなのだ。また、取るべき行動がわかる時は、それに対応したエネルギーの高まりや、その行動をどうしても取りたいというつき動かされるような感覚があると、文書はくり返していた。

 

簡単にその状態をイメージできるか、イメージした時その状態を楽しめているか不安や怖れはないか確認する。分かりやすいのは仕事を辞める時、仕事を辞めた状態をイメージしてなんとかなるわな楽観的気分を感じたら辞めてOK。不安しか感じないなら、今じゃない。いずれにしろ、やらなくてよい時や行かなくてもよい場所には、せっせと邪魔が入るもので、そういう障害が多い時は=行く必要がない、やる必要がないのサイン。後から突然、こういう理由で行く必要がなかったのかと腑に落ちる瞬間がやってくる、面白い。