雪月占花_心々の『楽書記』

地球の不可思議を楽しみゆるく暮らすためのメモ

立松和平さんの道元推しブリが熱い「道元禅師」

道元禅師〈上〉 (新潮文庫) 道元禅師〈中〉 (新潮文庫) 道元禅師〈下〉 (新潮文庫)

本日は、永平寺に行く前に道元を知ろう!と言うことで、立松和平道元禅師」を読んでみての『楽書記』。私は新潮文庫の上・中・下巻3冊タイプを読んだけれど、東京書籍の単行本は上・下巻2冊で出版されている模様 ↓ ↓ 単行本の方は、Kindleでも読める。

道元禅師 上  大宋国の空 道元禅師 下 永平寺への道

 

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道元禅師とは?ザックリ説明

上・中・下、各巻の内容と感想を

下巻より、フレーズを抜粋

この本の道元の印象と現在の永平寺の違い

永平寺を取材したおススメの漫画作品

道元禅師は、道元のことで(1200-1253)座禅を基本的な修行であるとした鎌倉時代の禅憎。日本における曹洞宗の開祖であり、福井県にある永平寺を建立した人物。源氏系公家の生まれで彼が執筆した「正法眼藏(しょうぼうげんぞう)」は、ジョブズ氏にも影響を与えたと言われている。

 

それでは「道元禅師」上・中・下巻、それぞれの内容と感想をザックリ楽書記。

上巻は道元が生まれてから、入宋(にっそう)する24歳までが描かれている。道元の出自や鎌倉時代の政情なども詳しく書かれていて当時の雰囲気を掴みやすい。物語は道元目線ではなく、道元の従者「右門」を語り部として進んでいく。が、その右門が「下司の勘ぐりで恥ずかしい……」などあまりに道元を敬いすぎる姿勢と言動が過ぎるため、いちいちそこにばかり気を取られてしまい、物語に集中できないまま読み続ける。私の心の狭さと、立松和平氏の道元への愛の重さ故に起きた事故のため仕方がない、とずっと言い聞かせながら読了。

中巻は、入宋してから(24才)京に宝林寺を建立するまで(37才)が描かれている。相変わらずの従者右京視点や第三者視点、アイドルを愛でるファンであるかのような遠さで語られるため、道元の「人となり」は浮かんでこず。その代わり(?)その当時の「環境」や「説法」は詳細に書かれ「道元研究」を深くされているコトや、立松和平氏の大敬愛ぶりは伝わってくる。ただ、小説的に読みたい私としては、歴史の授業で使用する教科書を補足するための資料集みたいな内容には、物足りなさが残ったまま読了。

下巻は、腫物にかかって亡くなる54才までが描かれている。三冊中最も他者との具体的な関わりが書かれていて、三巻中、最もニンゲン道元を感じられるが、最初から引きずっている味のしないガム並みに清廉潔白な人と言う印象は変わらず。立松和平氏にとっては、そういう人物だったんだろうな。ただここまで清貧を貫けた大きな理由の一つとして、自身の公家育ちが関係している事を本人が理解していない感じが気になった……してたのかもしれないけれど、伝わらなかった……武士の施しを受けてしまった育ちの貧しい若き弟子を破門するくだりは、そこを教育してこそだろうと思った。

ノンフィクション的に研究で得た事実だけを書くと、そうなってしまうのだろうか。必ずその数行の事実の前後に数千行の起承転結があるはずなんだけれど。そこを色々想像して立松和平氏の道元を描いて欲しいのだけれど、これだけファンだと自分の想像は一切入れたくないという意志表示なんだろうか、結局、道元の「人間性」や「性格」はこの本では出てこないまま読了。

 

下巻よりフレーズ抜粋

道元がこのように日常生活の規範を、顔の洗い方や口のすすぎ方まで事細かに説くのは、人間の生活すべてに仏法があると考えるからであった。しかもこのような細かなところから、仏法は破れていくのだ。─ 24ページ

 

正法眼蔵とは、釈尊のさとりそのものであり、誰にも動かしようのない絶対的な真理のことです。
正法によって諸法を照らし、ありのままに物事を包み込んで余すところがないことを、正法眼蔵というのですよ。─ 142ページ

 

「永平」とは仏法が初めて中国に伝来した後漢の明帝永平十年の年号からとった。永平とは仏法が東漸した暦号であり、永平寺とは日本に真実の仏法がようやく第一歩をしるしたことを意味している。─ 350ページ

 

外に向かう心の活き(はたらき)を方向を変え、自己の正体を照らしだすよう心掛ける。自己の内に無量の法が流れ、そこに生あり死あることを知る。これが只管座禅の座禅修行である。─ 412ページ

 

立松和平道元禅師」上・中・下巻を読了して思うのは、兎に角、立松さんは生真面目で道元が物凄く大大大好きなんだなと言う感想。歴史上の人物を描いた時の司馬遼太郎作品のような読後感を知らず知らずのうちに期待していた私にはとても味気なく、道元の印象そのものが無味無臭で肖像画をただ眺めた様な気持ちになってしまったが、当時の鎌倉の雰囲気はなんとなく知れたので満足。ただ腑に落ちないのは、現在の永平寺の雰囲気とこの本の道元のイメージが全く嚙み合わない。時代とともに変化してるからと言えばそれまでなのだけれど、永平寺の今の禅憎に接した印象からすると、道元はもっと面白味のある人物ではなかったのだろうか。

 

そう思うのは岡野玲子の漫画「ファンシィダンス」を読んでいたせいもある。この漫画は永平寺の禅憎を取材して、寺の跡取りの修行生活を描いた作品なのだけれど、出てくる人物、皆、キャラが濃いしわくわくキラキラしている、一瞬一瞬を楽しむことに必死なキャラ達を見ていると、やっぱり、小説でも漫画でも登場人物が生きている活きている息ているように感じられるのって創作物の醍醐味だなと思うし、今の永平寺の空気感は「ファンシィダンス」の方がより近いものを感じた。後世の同じ道を志す人間には、どこかしら道元味が出てしまうものではないのだろうか。

この漫画は全力おススメ。