雪月占花_心々の『楽書記』

地球の不可思議を楽しみゆるく暮らすためのメモ

初めてのクリシュナムルティに丁度良い「生と覚醒のコメンタリー」「英知へのターニングポイント」

本日は、インド人哲学系宗教家クリシュナムルティの本を初めて読むのに丁度良い2冊「生と覚醒のコメンタリー〈1〉」「英知へのターニングポイント」を『楽書記』。

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クリシュナムルティとは?

「生と覚醒のコメンタリー〈1〉」の内容をザックリと

「生と覚醒のコメンタリー〈1〉」本書よりフレーズ抜粋

「英知へのターニングポイント」の内容をザックリと

「英知へのターニングポイント」本書よりフレーズ抜粋

クリシュナムルティを読むと心で叫ぶコト

 

ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)は、南インドの貧しいバラモンの司祭階級にあたる家に生まれた哲学系宗教家(色んな肩書で表現されるけれど)。幼少期より父親が働いていた神智学協会において世界教師としての教育を受け、後に「星の教団」の指導者となるが1921年に解散。以降は、組織を作らずに世界各地へ赴き、さまざまな講話や対話を行った。彼は、愛や瞑想、今この瞬間を生きると言った直観的、感覚的な内容をそれだけで済ませることなく、一つ一つ誰もが解る言葉に徹底的に変換し、丁寧に説明を試み人々に伝えようと努力した人。クリシュナムルティの人物像は自叙伝(全3冊)が出ているので気になる方は是非そちらをご一読。全三巻の内容は全生涯を網羅する勢いで書かれていてかなりのヘビー級。読むと霊媒体質に苦しんでる様子や、周囲の近しい人との確執や別れ、教団運営の難しさ苦しさなどが伝わってきて、ただただ気の毒に感じる部分も多い。伝記三部作の記事はこちらから。

それはさておき「生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉」(全4巻)は、クリシュナムルティの本を初めて読む時に程好い一冊。翻訳で使用されている言葉の難解さ加減も程良く、読んですぐこの作品から読み始めればよかったと思った。本書は「刻々」を観察する描写ではじまり様々な人からの質問に応える形で進んでゆく。5ページ前後で区切られているのも読みやすい。ちなみに他の書よりも「あるがまま」と言う言葉が多く登場したように思う。言葉の切り取りはNGとクリシュナムルティは説いているけれど、切り取らずにはいられない!明解な言葉たち!

 

「生と覚醒のコメンタリー」本書よりフレーズ抜粋

願望は常に未来に関わるものであり、何かになりたいという願いは、現在において何もしないことである。現在は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。いまの中に一切の時間があり、そしていまを理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かになろうとすることは、時間を、悲嘆を持続させることである。なることは、あることを含まない。あることは、常に現在におけることであり、あることは、変容の至高形態である。─ 7ページ

 

あなた自身を知らないで、どうしてあなたは真理を知ることができようか?自己認識がなければ、幻想は避けられない。自分がこれこれだということを他人から告げられ、そしてそれを受け入れるというのは、幼稚なことである。この世や来世での報いをあなたに申し出るような人間には、用心したまえ。─ 23ページ

 

あるがままからの自由をもたらすのは、あるがままを名づけることなく、それを刻々に体験することである。─ 83ページ

 

買って得られるものは失われうる、そして与えられるものは持ち去られうる。そしてそれゆえ、権威とその恐怖とが生み出されるのである。恐怖は慰撫や燭光によって片づけられるようなものではない――それは、何かになろうとする願望の停止とともに終わる。─ 105ページ

 

いくらでも切り取りたい箇所があってキリがないので、この辺で「生と覚醒のコメンタリー」のフレーズは終了して、同じくもう一冊、初めて読むクリシュナムルティ本として丁度良いと思ったのが、彼が伝えたい諸々を網羅している「英知へのターニングポイント―思考のネットワークを超えて」。こちらはスイスのザーネンと、オランダのアムステルダムで1981年に行われた講話の速記録。余すところなく、思考、葛藤、秩序、恐怖、時間、悲しみ、愛、死、宗教が語られいるし訳も読みやすかった。この種の本は翻訳者が重要になるとつくづく思う。ひとまず「大野純一」の名前がある本は安心安全感がある。

「英知へのターニングポイント」本書よりフレーズ抜粋

あなたがバラや花を言葉なしに、その色を名づけることなく、ただ見れば、その見ることが鋭い感受性を生み出して、頭脳の無気力感を打ち破り、驚くべき活力をもたらします。思考と時間に無関係な純粋な知覚がある時に、全く異なったエネルギーがあるのです。─ 46ページ

 

クリシュナムルティを読み終えると最後にいつも心の中で叫ぶ「何か」になる!も、ならない!も、なれない!もなく、もうすでに「何かではある」と言うか、「私が在る」からいいんだ!と言うただここにあるだけで充分であるという事実を実感させてくれる、人であり本。