本日はヒンドゥ教の経典の一つ「ギーター」の翻訳本から2冊
「神の詩―バガヴァッド・ギーター」を『楽書記』。
ヒンドゥ教を散歩していると最初にお見掛けする、二大叙事詩「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」。その「マハーバーラタ」の第六巻におさめられているのが「バガヴァッド・ギーター 」=神の詩。その翻訳本を探していて行き着いたのが、この二冊。
一冊目上村勝彦、著「バガヴァッド・ギーター」。訳自体は本書の半分ほどで残りは訳注と訳者による解説。「ギータ―」の訳部分は行間が広く文字も大きめで読みやすいし、訳注が細かく丁寧。解説も重要な箇所をくまなくさらい補足され、ここだけ読んでも充分だなと思う程。印象的だったのは、魂(主体=個我)と身体は別であり魂は永遠に身体と言う器を替え続けるとキッパリと記されていた事、善悪の判断や結果を動機とせず運命=自分の演じる役柄(人殺しだろうが何だろうが)は決まっているのだから、自身の与えられたその役をただ粛々と演じきるのが生きる事。何処でもどの時代でも伝えていることは一緒なんだなと、シミジミ。
上村勝彦「バガヴァッド・ギーター(=神の詩)」本書よりフレーズ抜粋
主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。─ 34ページ
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。─ 38ページ
たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなさるべきである。彼は正しく決意した人であるから。─ 84ページ
私は世界を滅亡させる巨大なるカーラ(時間)である。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たとえあなたがいないでも、敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう。─ 98ページ
この世に生まれたからには、人は定められた行為に専心すべきである。ただし、行為に執着したり、その結果を期待したりすれば、行為に束縛される。そこで行為の放擲が必要になる。そして、放擲を実現するには、最高神についての知識と、彼に対するひたむきな信愛が不可欠である。「放擲のヨーガ」は「行為のヨーガ」、「知識のヨーガ」、「信愛のヨーガ」すべてに関わるのである。─ 244ページ
一般の社会人は、自分の仕事を遂行しながら、寂静の境地に達することが可能であろうか。多くの古代インドの宗教書は、社会人たることを放棄しなければ、解脱することは不可能であると主張する。それに対し「ギータ―」は、自己の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能であると説く。それどころか、社会人は決して定められた行為を捨てるべきではないと強調するのである。─ 264ページ
そして、二冊目に読んだのは田中嫺玉による「神の詩―バガヴァッド・ギーター」。単語ごとの意味や辞書的な説明を求めるなら上村氏、原書の雰囲気やニュアンスをより近くに味わいたいならこちらが良い感じ。
田中嫺玉「神の詩―バガヴァッド・ギーター」本書より抜粋
わたしの住む至高妙楽の住処は
太陽も月も火も電気も必要とせず
ただ自ら光り輝いている
ここに来た者たちは決して物質界に戻らない
現地球=物質界ほど面倒で手間がかかる場所はマジでない。日々目に見えて劣化しメンテナンス必須な「肉体」を必要とし、他者とコンタクトする際に以心伝心が出来ずわざわざ言語を必要とし、その上ちょっと陸地を渡ればその言葉すらまた変化する世界なんて「また来たいな」なんて絶対に思わない、どころか二度と行かないよう全力出すと思う。この物質界は完全なる「修行」という決意のもとで来てさえ、日々ヘコタレる。