不可思議探偵団_心々の楽書記

地球探索を楽しみながら、ときどき愚痴る

最古の聖典タントラOSHO版「覚醒の深みへ」第六巻

本日は、インドの神秘家(……?)としては外せない

OSHO「覚醒の深みへ―中心へ向かう・ハートの開発 和尚講話録(タントラ秘法の書)」の『楽書記』。

 

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OSHOと本書をザックリ説明

「覚醒の深みへ」本書よりフレーズ抜粋

ダラダラダラリと感想を

 

5000年前のタントラ最古の聖典『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ(意識を超えていく技法)』をOSHOが身近な例えや、ブッダやイエスを引き合いに出して解説しているシリーズの第六巻が「覚醒の深みへ」(全十巻)。OSHOはラーマクリシュナのハートからくる抽象的な詩的表現も、クリシュナムルティの様な理知的表現も可能な人だけれど、このシリーズに関しては特にどちらかに偏ることなく話しており、多くの人に伝わりやすい書になっている。と言う訳で、抜粋したいフレーズが多発している。

 

とくにエネルギー放出法はとても解りやすく書かれていて、すぐ取り組める。「自分自身を、自分の存在を、光線と考える。……中心から中心へと脊椎を上昇する、背骨を上昇する、そのようにして自分の中の生気も上昇する。」と言った感じ。自分を光線に例えるのってすぐに思いつきそうなのに意外と辿り着かないし、確かに光線に置き換えるコトによって、地球に繋がるコトが楽になる。地球上では地に足がついてないと、残念ながら何事も永続きしない。

 

「覚醒の深みへ―和尚 講話録 (タントラ秘法の書)」本書よりフレーズ抜粋

努力を忘れずに、まず努力から始めるように。しかしあくまでも、努力は捨て去るべきものであり、努力を超えていくことが必要だ。それを超えて初めて、受動的になれる。そして受動的な気づきが奇跡をもたらす。─ 85ページ

 

誰かに愛されると、あなたはいつまでもその愛を期待する。でも次の瞬間、相手はあなたを憎む。するとあなたは衝撃を受ける。その衝撃は相手の憎しみのせいではなく、あなたの期待のせいだ。相手は変化した。相手は生きている……変化するのは当たり前だ。現実をありのままに見たら、衝撃を受けることはない。 ー中略ー ただ忍耐強くなることだ。そしてまた相手も、この変化という基本様式を理解すれば、変化に対して闘うこともなくなる。変化は自然なものだ。─ 101ページ

 

あなたは友人のことなら何でも知っていると思う。それで期待し、欲求不満になる。あなたの期待を満たせる人間は誰もいない…あなたの期待を満たすような人間はどこにもいない。
誰もがみな自分自身の期待を満たすベく存在している。あなたの期待を満たすためではない。誰もがみな彼自身なり彼女自身を満たすために存在している。でもあなたは他人に満たされることを期待し、他人もまたあなたに満たされることを期待する。するとそこに闘争が、暴力が、葛藤が、悲劇が起こる。─ 107ページ

 

自分のもっとも親しい友人でさえ、ひとりの見知らぬ人間だ――かぎりなくあなたから離れている。この感覚が、この認識があなたに起こったら、見知らぬ人間を見たとき、その中にもまた一人の友人が見い出せるだろう。もし友人が見知らぬ人間でありうるなら、見知らぬ人間も友人でありうる。─ 107ページ

 

「私は年老いていく」と言ってはいけない。ただ、「私の体は年老いていく」と言うのだ。そうすれば死に際しても、こう認識できるだろう。「私は死にはしない。私の体が死んでいくのだ。私は体を替えるのだ、ちょうど家を替えるようなものだ」。もしこの識別が深まれば、ある日突然、そこに悟りが起こる。─ 116ページ

 

タントラいわく、誰も変える必要はない――世界も、また自分自身も。これこそ神秘主義のもっとも深い核心だ。世界を変えることもないし、自分を変えることもない。必要なのはただ、「すべては変化する」ということを知り、その変化の中に浮かび、その変化の中にくつろぐことだ。─ 128ページ

 

神は愛に満ちていない。神とは愛そのものだ。愛することのできる人は、もう「神」の中にいる。そして、その愛がかぎりないものへと成長し、特定の個人に限定されるかわりに、ひとつの拡散した現象となったとき……特定の恋人のかわりに、〈存在〉の全体、およそ存在するものすべてが、恋人となったとき、愛は祈りとなる。─ 144ページ

 

怒りがそこにあるとき、そのまま……ただそのままでいる。何もしない。
もしこれができたら、もしこのしないことができたら……ただそこにいて、観照し、けっして変えようとせず、物事が自身の道筋を辿るにまかせたら、何でも枯渇させることができる。─ 160ページ

 

あなたこそが、自分に起こることすべての原因だ。あなたこそが原因だ、世界はただの鏡にすぎない。ところが、ほかに原因を見つけることは、つねに慰めとなる。そうすれば、自分はとがめを感じなくて済む――自責を感じなくて済む。何かを指して、「これこそ原因だ、この原因が変わらないかぎり、どうして私が変わるだろう」と言えばいい、そしてその中へ逃げ込む。これはごまかしだ、マインドはつねに原因をほかのものに投影する。─ 164ページ

 

タントラはあなたに何の理想も与えない。あなたこそが理想だ。そしてあなたの未来は未知だ。過去の理想は何の役にも立たない。何物も反復できないし、また反復しても無意味だ。─ 262ページ

 

誰かが手で触るとき、その手は感じられない。感じられるのは、その重みと温かさだ。「それは手だ」と語るのは、推測であり思考であって、感覚ではない。温かさと重み、それが感覚だ。そして彼女はそれを感じるようになった。私たちは感覚を完全になくしてしまった。だから感覚を開発する必要がある。そうして初めて、こうした技法が実践できる。そうでないと技法は働かない。たんに頭で実行してしまう。─ 276ページ

 

誰かを愛する人間は、解き放たれる。誰かに愛されたとしても、それは役に立たない。なぜなら、そうしたらまた摂取するからだ。両極にはバランスが必要だ。そうすれば健康が起こる。私はそれを正常な人間と呼ぶ。正常な人間とは、取ることと与えることが並行している人間、釣り合っている人間だ。そういう人間は正常だ。─ 323ページ

 

誰もが「どこへ行ったら得られるか」と探し求めている。でも「どこに行ったら与えられるか、誰に与えたらいいか」と探し求める人は誰もいない。─ 326ページ

 

耳が目が身がイタイ。わりとよく聞き目にする話がOSHO語で語られている感じではあるのだけれど、この人の表現は俗世に近い感じがするからなのか身近に感じられる。これだけ痛さを感じられるのだから、なんとか改善できると思えてくる。

 

ついこの間もこの期待で討論したばかり。友人たちは皆そろって「普通はこうするべきじゃない?」「こうしたんだから、こう返すべきでしょう?」と。「そう思うでしょう?」と、共感(≒脅迫)を求められる。ここ最近色んな人とこの流れの会話ばかりしているのは、なぜ何だろう!?そして毎回「それはあなただけの普通であって、その相手の普通じゃないから」。「それはあなたが作った六法全書ではそうかもしれないけど、相手は相手の六法全書持ってるから」と応える。これも期待の一種だよな、と思う。そして何故そこまで自分とは全く別の人間に期待できるのか、希望の応えを求めたり予測を立てられるのかが、不思議。顔形が違うのと同じで、感じ方考え方は絶対に違う。思考や感情が目に見えれば納得できたのかな。そろそろイチイチ予想を立てたり期待して、ストレスを溜めたり疲れるのを止めて欲しい。