本日は、インドの宗教家クリシュナムルティの瞑想に焦点を充てた二冊「クリシュナムルティの瞑想録」と「瞑想」を『楽書記』。
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ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)は、南インドの貧しいバラモンの司祭階級にあたる家に生まれた(色んな肩書で表現されるけれど)哲学系宗教家。幼少期より父親が働いていた神智学協会において世界教師としての教育を受け、後に「星の教団」の指導者となるが1921年に解散。以降は、組織を作らずに世界各地へ赴き、さまざまな講話や対話を行った。彼は、愛や瞑想、今この瞬間を生きると言った直観的、感覚的な内容をそれだけで済ませることなく、一つ一つ誰もが解る言葉に徹底的に変換し、丁寧に説明を試み人々に伝えようと努力した人。そんなクリシュナムルティの人物像は自叙伝(全3冊)が出ているので、そこで感じとることができる。全三巻の内容は全生涯を網羅する勢いで書かれていてかなりのヘビー級。読むと霊媒体質に苦しんでる様子や、周囲の近しい人との確執や別れ、教団運営の難しさなどが伝わってきて、気の毒に感じてしまう様な場面も多い。伝記三部作の記事はこちらから。
まず最初の一冊は、「クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔」。こちらはインド、カリフォルニア、ヨーロッパでの対話とずっと気になっていた1929年8月2日の「星の教団解散宣言」の演説が掲載されている。何事も始まりと終わりはとんでもないエネルギーが生まれるのでとても気になっていた。また、かなりザックリだがクリシュナムルティの伝記風な訳者の解説(安心安全の大野純一氏による)も読めて楽しい。「絶えず人生の目的を探究するということは人間が陥りやすい奇妙な逃避のひとつである。」とは目耳心がイタイ、その他に痛くなったフレーズの数々を抜粋。
「クリシュナムルティの瞑想録」フレーズ抜粋
〈ただひとり〉とは文字通り、何ものにも染まらず、天真らんまんで自由であり、そうしてばらばらではなく一個の全体として、凛としてそこにあることである。人がそのように単独なものであるとき、この世界に生きながら、常にアウトサイダーとなるであろう。ただひとりあるときにはじめて、完璧な行為と協力が生まれる。なぜならば愛は常に一個の全体なのであるから。─ 106ページ
純真さとそれがもたらす繊細な感受性を、決して失わないようにしたまえ。それこそは人が持つことができ、また持たなければならない唯一の宝なのである。─ 129ページ
数知れぬ経験にもかかわらず天真らんまんな精神だけが、真実なるものを見ることができるのである。そして真実だけが精神を繊細に、すなわち自由にするのである。─ 130ページ
われわれが関連し合う共通の場は、それぞれの専門分野においてではなく、まさに不安や罪や懸念においてなのである。─ 173ページ
学ぶことは抽象でも観念でもなく、具体的にあることについて実際に学ぶことである。現に行為がなければ学んでいるとは言えないのであって、あなたは行為のただなかにおいて以外自分について学ぶことはできない。まず自分について学び、しかる後にその知識に基づいて行為に移るというのであれば、その行為はあなたが蓄積した知識に従った模倣に陥ってしまうのである。─ 218ページ
学ぶとは何ものにもとらわれることなくものを観察し、見ることである。もしも、蓄積した知識からものを見れば、そのような〈見〉は限られたものであり、そこには何ひとつ新しいものはない。─ 219ページ
スピリチュアルとか瞑想という言葉に抵抗がある私の様な屁理屈タイプにも理詰めで説明してくれるクリシュナムルティ。こちらの「瞑想」では、「自由への道」「自己変革の方法」「クリシュナムルティの瞑想録」「クリシュナムルティの神秘体験」などの原著から瞑想に関して記述した部分を抜粋し、新訳したダイジェスト版的な書。初めて読むにしても気楽に毎日手に取る感じとしてもイイ匙加減の詩集的書。そしてクリシュナムルティにやるなと言われたフレーズ切り取りを今回も。常に一部分ではなく全体像を把握することを彼は推奨しています、笑。
「瞑想」よりフレーズ抜粋
事実を一瞬一瞬 理解していくなかで 哀しみはなくなってゆくのです そのような理解をあたえてくれる方式や方法など ひとつもありません ただ なにも選びとることなく 事実に気づいていればよいのです ─ 70ページ
瞑想とは 完全な注意をはらって あらゆるものを見ている 心の状態です 部分に注意をむけるのではなく 全体に注意をむけるのです ─ 107ページ
それにしても、瞑想って苦手、今日から毎日やるぞ!と思って翌日には忘れてるという有様。そんなに物事が続かないタイプでもないのに、余程、あわないんだろうなぁ。あはは。